「あ。」と同時に口に出された。知らず止められる足元。
私よりも若干早く部屋を出ていたのだろうその人は、鍵穴から鍵を抜きそのままの姿勢で私を見てる。私といえば、ドアノブに手をやったまま、ただ扉を開けているだけの状態だ。
――――どうしよう、って正直思った。
「お疲れ、さま…」
「ああ」
勇気を出して言った言葉へ返されるのは無愛想な一言。…ちょっとぐらいにこやかに出来ないのっていつも思う。
途切れてしまった会話の続きを思いあぐねる間もなく、彼が踏み出すのが分かって慌てて私も鍵をかけ、つられるように後を追った。
慌ただしく後を追う私の気配に気付いているはずなのに彼が振り返るということはない。待ってと言うことも出来ずに追いかけ追いつくと私はその人の隣へ並ぶ。
なだらかな道。夕日を背にする私たちの目の前には自分たちの影が伸びている。
その道をただ静かに歩いていく。
隣を歩く跡部からはまだ何も文句は聞こえてこない。
「…決まりそう?」
「ああ、まあな」
「監督にはもう言ったの?」
「今度の練習試合用に、とは言ってある」
それで正式に決まんだろ。続けてそう言った。
まだその役職には就いたばかりのはずなのに、もう随分と前から馴染みある気のする貫禄ある目はまっすぐ前を向いている。堂々としたその口ぶりにも不安や戸惑いなんかは見て取れない。
一歩づつ、もう三年目になる慣れた道を歩む度に跡部の持つ鞄と私のそれとがうるさく鳴ってる気がして私の心臓を速めていった。それを気にしているのは私だけなんだと思うことが、余計にもっとうるさく感じさせてたまらなかった。
鼻先から感じる生温い初夏の風。半袖から伸びる腕に夕日が照り付けて少し熱い。
少しだけ、勇気を持って隣を盗み見ると見上げたその先、その人の襟元にかかる髪は西日を受けてオレンジ色に輝いていて、思わず私は視線を逸らした。
「今度も正レギュの方に鳳くんは入ってるのかな」
「鳳?」
「うん。お気に入りなの」
「へぇ」
「いい子なんだよ、最近仲良くなったんだ」
「なら言えねぇな」
「え…」
つい咄嗟に聞き返してしまった私は同時に彼を見上げて、その先、私を見る跡部と目が合う。
「仲が良いんだったら余計に言える訳ねえだろ。発表はまだ先だ」
さも呆れたように出されるその言葉に「あ…そっか」と、私は視線を外して言うことしか出来ない。
そして小さく呟くように言ってしまったことを強く後悔した。
静かなこの道を歩むには私たちはあまりに中途半端な距離しか持ち得ていなかったんだと思う。
部活のこと、それしか彼の喜ぶだろう話題が分からない。
だから余計に分からない。何でそんな人のことを、って本気で思うの。
考えながら地面へと視線を落とすと歩む私の足と跡部の足とが目に映る。
細く、長く、伸びている影。
戸惑う私の気持ちを他所に、まっすぐに並ぶ二人の姿を映し出している。
「もな」
「え、な何?」
突然呼ばれ、驚いた。
「マネージャーの中なら今じゃ一番上の立場だろ?」
「…一応そうですけど…」
「なのに後輩に教えられてんじゃねぇよ、なんだ今日のあれ」
「!なんで知ってんの?!」
「騒いでんのが耳についた」
「…なんで跡部って、そう知らなくて良いことばっかり…っ」
「知るか」
「…!」
詰まる私にどこか味を占めたのか、跡部は嬉々として続ける。
「情けねえよなあ?一体今までの三年間、は何やってきたんだろうな?」
「………。」
見下す口調に違わず視線。心の底から愉快そうな表情を、よりにもよってこんな話題の時に見せてくるこの人を、それでもなぜか人気だけはあって、一体みんなこんな苦労しそうな人のどこを、ってずっと思わせられてた出来れば出来るだけ関わらないようにって決めていた人を、なぜか今、私が。
やっぱり納得いかない。こんなの絶対間違えてる。
――――一つづつ、挙げていこうと思った。
悪い所で埋めていく。それできっと目が覚める。絶対気のせいだったって思える。
これは私にとって最良の策。
そうに違いないって、私は強く信じていた。
まず一つ。彼は横暴だ。
「跡部が部長なんてさ、皆さぞや内心怯えてるんだろうな」
「は?」
「絶対そうだよ」
「んなわけねえだろ」
「なんでそう言い切れるの」
「俺へのあのありえないほどの信頼を見てみろよ、あれが全てを物語ってんじゃねぇか」
「………。」
自信満々にそう告げる跡部に確かに部活中あちこちから聞こえる多くの言葉を思い出した。
跡部部長みたいに さすが跡部先輩だよな
全員とは言えないけれど、多くが惜しみない尊敬と羨望を彼に注いでいるのは分かるし、それを目標に頑張ってる新入生だっているのを確かに何人も見かけてしまった。
跡部自身それを踏まえてるからこそきちんと部員に声を掛けているのも知ってる。跡部に声を掛けられると、皆それまで以上に俄然やる気を出して練習に励むから。
「まあ…そうかもしれないけど…」
「認めたな」
「…!」
図星を突かれぐっと詰まる。にやりと深く微笑む彼。
私は心の中で深呼吸を繰り返した。大丈夫、大丈夫、まだいくらだって要素はある。はず。
次に、自分勝手だ。
「でも勝手だよね」
「根拠は?」
「え?!」
「ねぇのかよ」
「え、えっと…あ、ほら!前に練習試合やるって言ったのに突然変更した!」
「………お前馬鹿だろ」
「なんでよ?!」
「…説明すんのもめんどくせぇ…」
「面倒くさがりなのもダメなとこだ…」
「あ?」
つい零してしまった言葉に反応されて、慌てて私は「何でもない」と否定する。
大袈裟に手振りしたのがいけなかったのか、跡部は訝しげに眉を顰めていたけれど何とかそこは愛想笑いで乗り越えて。
一つ、彼は溜め息を吐いた。
「あの日、お前その後に何が控えてたかは覚えてるか?このバカ」
「え?てかバカって!」
「あの時期何があったんだよ」
「何がって…」
真剣な声に私は記憶を遡らせる。
「…地区予選?」
「出場した連中はその頃どうだった」
「え、……あ」
そして思い浮かぶ。
うな垂れるようにしていた彼らを。
地区予選初戦、新体制で臨んだ始めだったこともあるかもしれない。ぎこちないまま試合に臨み、勝利はしたものの辛勝という結果に終わった。実績から言って力の差は歴然と言われていただけに、試合に出場した準レギュラーの子たちは随分と力を落としているようだったのを覚えてる。
確かに跡部が指定した練習メニューを突然変更したのはそういう時期だ。
「次に疲れを残さないのと自信回復のために監督に頼んで変えたんだよ、あれは」
「うそ……」
「嘘じゃねぇよ、このエセマネージャー」
「エセって…!」
本当のことなのかもしれない。というより本当のことなのだろう。
その時だって何も言わなかったのに、今ももう告げることはないとでも言うように跡部はもう口を閉ざしている。堂々と前を向きながら。
胸がざわつく。
――――うそ、何それ。全然そんなの知らなかった。
突然メニューを変えられて用意を一からしなきゃならなくなった私は散々文句を言ってたのに。
何も言わずに進められる歩幅。
徐々に茜色を増した日が強く彼の背を照らしてる。合わせるように影は長くなっていく。
ゆっくりと足を踏みながらもそれなりに距離をきていた。体育館や教室のある本館を越えて、遠目だけれど小さく向こうには校門が見える。跡部はこの後どうするのだろう。時々呼んでいるお迎えが今日も来ているのだろうか。そんなことをぼんやりと私は考えて、知らず歩幅は縮まっていた。
その時彼が切り出した。
「つうか何だよ。は何か言いたいことでもあんのか?」
「え?」
「さっきから随分と突っかかってくるじゃねぇか」
不敵に笑い、そう跡部は聞いてくる。
それも仕方がないかもしれない。おそらくこんな風に反抗的なことばかりぶつけたのは初めてだ。跡部が不思議に思うのは当然だと思う。私にとって跡部は出来るだけ関わりたくない人で、跡部にとっての私も同じはずで。
「別に…ちょっとこう、日頃の不満を」
「へぇ?お前がそんなこと思ってたってのは意外だな」
「完璧な跡部にも反感持ってる人はいるんです」
「完璧、ね。褒め言葉をどうも。確かに完璧な人間だからな俺は」
「…!」
しまった、と思った時にはもう後の祭り。私の失言は跡部を上機嫌にさせるための一つとなってしまう。悔しくて睨み上げると「バカだな」としてやったり顔の跡部と目が合った。
横暴な跡部、身勝手な跡部、自分の平穏のために出来るだけ関わりたくなかったはずの跡部。
…跡部は、あの日を覚えているだろうか。
自分の足元へ視線を落とすとそこにはあの日と同じように長い影がある。
私とこの人、近い距離を初めて感じさせたあの日の影。
あの日、私はとんでもないドジをした。
地区大会を終え都大会を控えたあの時、私は跡部に指示された時間とは違う練習日程を準レギュラーの彼らに伝えてしまい、おかげで正レギュラーの跡部達と準レギュラーの彼らが鉢合わせてしまうという事態を引き起こした。
準レギュラーの彼らにはとても大変な時期だったし、元あると思っていた練習時間が削られてしまうのはとても焦りを生んだのだと思う。当然の非難にただ私は謝ることしか手段を持ちえておらず、そこへ助け舟を出してきたのが跡部だった。
「ごちゃごちゃうるせえ」
「要は自分たちの実力の問題だろ」
「確かにこいつはどうしようもないドジを踏みやがったが、それをいつまでも言って何になる?」
「そんな暇があるならさっさと練習を積め」
そう言うと正レギュラーの練習時間を彼らに譲ってくれた。怒鳴りつけられるならまだしも、まさかあんな風に庇われるなんて夢にも思わなくて、正直本当に戸惑った。
硬いコートの上。照りつける太陽に、伸びていた二人分の影が目の前に立つその人をまるで知らない誰かのように思わせて、初めてしっかりと、跡部景吾という人の姿を目に映したような気がしていた。
あの日を、この人は覚えているだろうか?
なだらかな道。夕日を背にする私たちの目の前には自分たちの影があの日のように伸びている。
その道をただ静かに歩き続け、もう目前に校門は迫っていた。
「うちの部のためにもにはもう少し人並になってもらわねぇと話になんねえな」
「えちょっと何それ、もう充分に人並だよ」
「どこが、お前自分の今さっきまでの発言を思い返してみろよ」
「え。」
「一貫性ゼロ。どういう思考回路してんだかまるで分かんねぇな」
「……やっぱ跡部って失礼だし…!」
「事実を言ってるだけじゃねぇか」
通路を挟んで前の通り。予想通りおそらく跡部の家の物だろう車が一台停まっているのが見える。少し残念、という気持ちが横切ったような気がしたけれどそれは気付かなかったことにしておく。
「マジでお前どうしようもねぇ」
「跡部はほんとどこまでも口の悪い人だよね」
「でも、」
でも。
そう言うと跡部は突然足を止める。
突然のことで私は合わせるのが一歩遅くなって、跡部よりも一歩前へ出る形となった。私は彼を振り返る。その途端、強い西日が目に飛び込んできて目を細めた。
強い、茜色。
「お前とこんな会話すんの初めてか…?」
跡部は言った。
「え…」
「どこか俺に距離置くようにしてただろ、」
思考が停止しそうになる。
それを口に出して言うことさえ初めてだったから。
「別にそれをどうこう言うつもりはねえけどな、…でもたぶんこっちの方がらしいんだろ」
「らしい、っていうか…」
「バカ丸出し」
「丸出しって!」
「いいぜ?それで」
「え、」
「お前はそっちの方が良い」
言葉に詰まる、というよりは何かが溢れ出そうになって、私の全てでそれを押し留めたけれど、どうしてもその何かは溢れ出して広がっていく。そして一つ、何かが剥がれ落ちるような気がした。
向き合う跡部の向こうから橙の色味を増した空が見える。最後の力を振り絞るように注ぐ太陽の強く細い光は、鋭く伸びて私達を照らしていた。戸惑うように視線を落とすとそこにはあの時と同じように影がある。並んだ影。ざわめく私の胸の内を、間違いないのだと背を押すようにその場所にはっきりと映し出す。
―――――分かった。分かってしまった。
ゆっくりと、私は顔を上げた。
「じゃあ…これからは遠慮しない方向で」
「ああでも馬鹿な真似は勘弁しろ」
「跡部もその失礼すぎる態度はどうにかして」
怒る私を他所に、あなたが笑うとどうしようもなく胸の内がざわついて、それを嬉しく思ってしまう私がいる。どきどきする力が忘れたくないと、真剣にあなたのことを見つめてしまう。伸びる影が、重なるように向き合うこの場所は私にとってとても心地が良い。
もうきっと、認めるしかないのだと痛感した。
そう、私は彼に恋してるのだと。