珍しく受信簿にあの人の名前が連続10件以上並んだ後のことだった。


「あれ……?景吾?」


向こうに佇む人影。何度か目にしたことのある傘。
それが誰かってことはすぐに分かったけど、認めるまでには時間がかかった。だって。なんでここに居るの。

既に水気を含んでぐっちょりと重くなった靴を、もうこの際というか、構わないと思って大きく踏み出した。
跳ねた水は、今も静かに降り続ける雨と一緒になって水面に模様を描く。

「なにやってるの!」
「…こっちの台詞だ、それは」
「え。だって今の状況とかすごい細かくメールしたじゃん」
「じゃねえよ。このバカ」
「え?」
「何で好き好んでこんな台風の日にてめえは出掛けてんだよって言ってんだよ」

そんなに眉間に皺寄せてばっかだといつもそんな表情になっちゃうよ、と今までに何度言ってきただろう。

甘い視線を向けられるよりは厳しい表情ばかり向けられることの多い気のする私の予測を、
より確信に近づける顔をして低い声で景吾は言う。

機嫌があまり良くない、ということだけはよく分かった。


「…だってさ、せっかく学校休みになったんだしさ」
「ああ」
「昼間はそんなに降ってなかったでしょ?風もなかったし」
「…で?」

一層声が低くなる。
まずい、私は正しい言い分を述べているはずなのにどうして一層彼の表情は険しくなっていくんだ。
危険を本能が察知して、彼の顔を見上げることは回避した。
大人しくただ前だけを見据える。視界に入る小雨。
普段は彼との距離を拡げるだけの煩わしい傘にも今はとりあえず感謝だ。


「だからちょっとだけ出掛けてみたんだけど……」
「で、その挙句どういう目に遭ったかは分かってんだろうな、

アーン?と語尾についてる。絶対ついてそう。
言えないから心の中で思う。

「電車が止まった、ってメールまではまだ許してやるよ。有り難く思え」
「え、てか何で許可が必要なの」
「この俺様の貴重な時間を潰しやがったのは誰だ?」
「……。」

私です。と、ここは素直に立候補すべきなのだろうか。
それともこの圧倒的なオーラに口をつぐんで正解なのだろうか。

けど私って彼女じゃないか一応。それぐらいは許容してもらう所なんじゃないの…?
彼氏にメールするのに許可がいるっていうのか、この人は。

おかしいでしょそれ!


「不満が顔に出てんだよ」
「え」
「お前が俺に文句を言える立場か?
「だって私一応彼女だし…!」
「てめーのおかげで今日中に読むはずだった本が読み終えらんなかったんだよ、俺は。ふざけんな」
「ふざけんなって……!」
「ったく…最初返事したのが間違えだった。その後も少し動いただの、やっぱ止まって動かないだの送ってきやがって…」
「………。」


これが「まったくしょうがないなぁ」と自分の彼女を甘やかすように言われたセリフなら、同じ言葉でもどれだけ違ってくるんだろう。
ごめんね、と感謝の気持ちで胸いっぱいになりながら擦り寄ることも出来たかもしれない。

けど景吾の声はそんな味を少しも含んじゃいない。
ただただ。本当にただ。「面倒でした」と言わんばかりの声色だ。


……景吾には分からないんだ。
公共の交通機関使う人じゃないもんね。電車通学とかこの人絶対したことないもん。
いざとなったらお迎えの車がくるような人だから分かんないんだよ。

私からすれば最寄の沿線が止まるなんてかなりの大事だ。
振り替え運送とかもまだなかったんだぞ。乗り継ぎ出来る沿線もない所に二時間も停まってたんだ。

窓の外は半端じゃなく暗いし、開けられたドアからは容赦なく雨が入り込んでくるし、おかげで車内は真冬並に寒いし。

そんな中で何で景吾に助けを求めちゃいけないっていうのよ。


……正直、珍しく何度も返事返してくれたの嬉しかったのに。


景吾のバカ!



「お前な、何で休校になったのか分かってんのか?」
「……台風が来てるからでしょ」
「台風が来ると普通どうなんだよ」
「……。雨が降る?」
「……殴んぞ」
「ひどっ…!」

思わず反射的に景吾の顔を見る。
やっぱり眉根は寄せられていて、渋いその顔色は本気でそうしかねない、と私を色んな意味で震わせた。

また私は前を向く。
同じ電車に乗せられた人たちが、ようやく辿り着いた自分の駅に早く帰路へ着こうと一目散に足を進めているのが見えた。

冷たい小雨が肌を濡らす。
季節に合わない程の寒さが体温を奪っていく気がした。


「お前な……」

呆れた声で景吾は言う。

「普通に考えて危険だから休みになったんだろ」
「……あ、うん…そりゃあ」
「分かんだろ?いくらお前でも」
「分かるよ!失礼な!」
「だったら何で出掛けてんだよ。このバカ」
「あ。」

景吾の言いたいことがやっと分かった。

なぜ、彼がこう不機嫌なのかも。



「………ごめんなさい」
「自業自得だな、マジで」

行くぞ、という合図のように踵を返すと景吾はその手を私の頭に乗せる。
車をあっちに待たせてると言いながら。二度、言葉なく静かにそれを動かした。

その手がどんなに冷たかったか。どんなに冷えきっていたか。

驚くほどに冷たかった。
本当に驚いた。


でもごめんね。それがどんなに私の胸の内側を熱くさせたか。


ぎゅ、と傘の柄を持つ手の力を強める。


「私やっぱ景吾の彼女で良かったかも……」
「車に乗せられてんじゃねえよ」
「違うよ!それで言ってるんじゃなくて!」
「あーはいはい」

傘を広げた距離がやっぱり邪魔でもどかしくて、私は傘を折りたたんで景吾の方へと無理やり入る。

「狭い」
「家帰ったらたっぷり本読んで良いよ」
「今更もう読む気もしねえ」
「じゃあ来週私と居る時読んでても良いよ」
「実際やったら拗ねんのどいつだ?バーカ」


動き出すのを待ってた二時間。一刻も早く止んで欲しかった雨だけど、もう少し降ってても良いよ、って空へと伸びる傘に思う。

柄を握る彼の掌に、私もふざけて自分のそれを重ねてみた。